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清少納言の供養塚伝説|鳴門市の「あま塚」が供養塚であると言えない本当の理由

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「春はあけぼの」の一節で知られる平安時代を代表する随筆「枕草子」。

作者の清少納言も紫式部と並ぶ女流作家として有名です。

そんな清少納言の墓所とされる供養塚が、徳島県鳴門市里浦町に残っています。

本来なら地域おこしの絶好の材料になるはずですが、なぜかほとんどPRされないまま、ひっそりとたたずんでいるのです。

清少納言とは

清少納言は平安時代中期に活躍した女流作家です。

著名な歌人だった清原元輔(きよはら の もとすけ)の娘とされ、宮中で中宮定子(ちゅうぐうていし)に仕えました。

定子の死後、宮中を去り、再婚相手の任国摂津国(今の大阪府北部、兵庫県東部)に移ったといわれますが、没年や墓所は不明で、全国各地に伝承が残っています。

徳島県鳴門市にある「あま塚」

話が少し変わりますが、徳島県鳴門市(なるとし)には「あま塚」と呼ばれる塚が存在します。

この塚、小さな建物の中に古い五輪の石塔がまつられ、婦人病治癒や安産のご利益があると伝えられています。

旧暦3月の10、11日に大祭が営まれ、女性の参拝客が多く見られます。

あま塚の3つのいわれ

鳴門市商工観光課によると、あま塚には3つのいわれが残されています。

1つは「日本書紀」に出てくる海人で、允恭天皇(いんぎょうてんのう)のために命がけで真珠貝を採取したとされる男狭磯(おさし)をまつったという説です。

もう1つは鎌倉時代の承久の変で土佐(高知県)に流されたあと、阿波(徳島県)で崩御された土御門上皇(つちみかどじょうこう)の火葬塚という説です。

最後の1つが清少納言の供養塚という説で、鳴門市では一般にこの説が最も広く信じられています。

しかし、地元からするとちょっと恥ずかしいいわれが残っています。

あま塚が清少納言の供養塚であるとPRできない本当の理由

宮中を去ったあとの清少納言がこの地を訪れた際、地元の漁師に辱めを受け、それを苦にして海へ飛び込んで自殺したというのです。

これとは別に、漁師が身ぐるみをはいで殺したという話もあります。無念の思いとともにこの世を去った清少納言を供養するため、建てられたのがあま塚というわけです。

清少納言の墓所とされる場所は京都市右京区や香川県琴平町など各地にあり、それなりに観光用に宣伝しています。

しかし、鳴門市はあま塚の前にいわれを書いた案内版を設けたぐらいで、積極的なPRをしていません。

観光案内でも片隅にさりげなく記載しているだけです。

いわれが真実だとすれば、地元の漁師の非道ぶりは目に余ります。

清少納言の墓所として観光PRしたくても、胸を張って全国に売り出すのはちょっとはばかられるのかもしれません。

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