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『コクリコ坂から』の都市伝説まとめ|エヴァとの以外な関係やカットされた幻の爆破シーンなど徹底紹介!

2011年に公開された『コクリコ坂から』は、甘酸っぱい恋模様とほろ苦い時代背景が複雑に絡んだ青春物語です。

宮崎駿の長男である宮崎吾朗監督2作目で、声優をつとめたキャスト陣の華やかな顔ぶれも話題になりました。

実は『コクリコ坂から』には多くの謎や裏話があるのです。

この記事ではコクリコ坂にまつわる9つの都市伝説を徹底解説します。

『コクリコ坂から』『エヴァンゲリオン』『攻殻機動隊』の意外な関係

庵野秀明監督の代表作「エヴァンゲリオン 」(出典:映画.com (C)カラー)

『コクリコ坂から』と『エヴァンゲリオン』『攻殻機動隊』。

一見すると関係がない3つの作品ですが、制作の主軸である監督やプロデューサーとの関係がとても深いのはご存知でしょうか。

エヴァンゲリオンの監督は庵野秀明です。

庵野はかつてスタジオジブリのアニメーターとして『風の谷のナウシカ』(1984年)に参加していました。

その後もジブリとの親交が深く、庵野監督作品である『空想の機械達の中の破壊の発明』(2002年)の企画は宮崎駿。

ジブリの作品『風立ちぬ』(2013年)の声優は庵野秀明です。

庵野は宮崎を「アニメーションの作り方、映画の作り方をしめしてくれた師」(『風立ちぬ』完成報告会見)として仰いでいます。

攻殻機動隊の監督をつとめた押井守も宮崎駿と深い関係にあります。

宮崎作品を酷評することで有名な押井ですが、実はジブリで映画制作の企画を立てたことがありました。

方向性の違いで企画は破綻しましたが、押井と宮崎は実力を認め合うライバル関係です。

そんな宮崎駿・庵野秀明・押井守が集まったのは1990年の夏合宿でした。

若かりし頃の宮崎駿と押井守(出典:はーとぼいるどワンダフル。

宮崎氏は毎年、映画の構想を練るために夏合宿を開きます。

構想テーマは「少女漫画を映画化できるか」でした。

そこで取り上げられたのが『コクリコ坂から』(原作:佐山哲郎 作画:高橋千鶴)だったのです。

左が庵野秀明氏、右が押井守氏(出典:VIPワイドガイド

映画版『コクリコ坂から』は企画されるものの、すぐに制作されませんでした。

物語のテーマである学園紛争は1970年代まで現実に起きていて、1990年の時点では学園紛争シーンを「古臭い」「時代遅れ」と捉えられる可能性があったのです。

企画から20年以上の時を経て「古臭さ」は「ノスタルジー」として世間に認知されるようになりました。

このエピソードはジブリの「時代に合った作品を世に生み出す」という心意気を感じます。

そして、1990年のあの夏合宿があったからこそ『コクリコ坂から』が誕生した。そう言えるのかもしれません。

宮崎駿が差し入れた伝説のカレーパン

『コクリコ坂から』が公開されたのは2011年7月。

公開4ヶ月前の2011年3月に東日本大震災が起きました。

当時、映画は制作途中。

未曾有の大災害に制作を中止すべきか、公開を延期すべきか、制作陣のあいだで話題にのぼったそうです。

暗雲立ち込める制作現場の空気を一変したのは宮崎駿でした。

「不安だけが流れる時代に自分たちが何を作るかが問われている。そういう意味で、ヒロインや少年のたくましく生きようとする姿はこれからの時代に必要なものだ」

そう主張し、現場を鼓舞しました。

映画『コクリコ坂から』の舞台は東京オリンピックの前年である1963年。

高度経済成長期のまっただなかにありながら、戦後わずか18年という戦争の爪痕が消えない時代です。

映画で描かれたのは、刻一刻と変わる社会情勢の中で真実を知るために奔走するメルと俊の姿。

そして戦時中の混乱にあっても友情や子どもを守ろうとした親たちの姿。

映画で描かれたヒロインやその親たちの生き様は、震災を乗り越えようとする現代の人々と重なります。

宮崎駿監督が皆を鼓舞しつつ差し入れたと言われるカレーパン(はこんな感じだったのかもしれませんね(想像図))(出典:komachi web

冒頭でカットされた爆破シーン謎

コクリコ坂からの冒頭には「メルの父親が爆破に巻き込まれて死ぬ」というシーンが存在したそうです。

作中の中盤にも船が爆破されたようなシーンはありますが、はっきりと死を描いているわけではありません。

父親が死ぬシーンがカットされた理由には2説あります。

・脚本を担当した宮崎駿が爆破シーンを描いたが、監督をつとめた宮崎吾朗がカットした

・宮崎吾朗監督が脚本には入っていないオリジナルシーンを追加したが、宮崎駿に却下された

まずは1つ目の宮崎吾朗監督が爆破シーンをカットしたという説。

宮崎駿が書いた脚本は「主人公の父親が死ぬ」というショッキングなシーンを冒頭に置き、全体的な雰囲気も暗かったそうです。

しかも脚本は会話劇で、具体的な動きが想像しにくかったため「どうアニメで表現するか」宮崎吾朗監督は悩みました。

宮崎吾朗監督は脚本を大幅に変更します。

その結果、主人公の日常を丁寧に描き、テンポよく物語を展開することに成功しました。

脚本を映像にする過程で削られたシーンのひとつが爆破シーンだった、というのが1つ目の説です。

2つ目の宮崎駿が爆破シーンをカットしたという説。

制作を任されていた宮崎吾朗監督ですが、父親である宮崎駿が横から口を出すのを疎ましく感じていました。

絵コンテを見た宮崎駿が「こんなのじゃない」とダメ出しすることも日常茶飯事だったとか。

宮崎吾朗監督はフラストレーションがたまり「父親が死ぬ」というシーンを描いたのではないかと噂されています。

最終的に爆破シーンは宮崎駿の横槍で却下された、というのが2つ目の説です。

どちらの説も噂ではあります。

しかし宮崎吾朗監督は『コクリコ坂から』のタイトルを『旅立ちはアナタの背中から』にしようとしていたそうです。

父親からの巣立ち・独立を表現したかったのかもしれません。

偉大なアニメ映画監督である宮崎駿を父に持つ宮崎吾朗の葛藤が伝わってくるエピソードですね。

震災の余波は映画制作に多大な影響を及ぼしました。

アニメ制作はコンピューターの作業が大部分を占めますが、計画停電の影響で思うように作業が進みません。

作業担当者は停電時間外である深夜に作業するため、夜8時から出社しました。

宮崎駿も現場に足繁く通い、制作陣にカレーパンを差し入れたそうです。

映画の完成は、制作陣が一丸となって大震災を乗り越えた証でもあります。

メルは何のために旗をあげたの?冒頭とラストシーンの変化

『コクリコ坂から』は主人公メルが旗をあげるシーンを印象的に描いています。

旗をあげるのは「航海の無事を祈る」という思いが込められているのですが、冒頭とラストシーンでは意味が違っているのです。

松崎海(まつざきうみ=メル)は祖母とともに下宿コクリコ荘を営んでいます。

メルは亡くなった父親のために毎日旗をあげていました。

父親が亡くなったと理解しているにもかかわらず、航海から帰ってこられるよう祈りを込めて旗をあげているのです。

メルの祖母は「素敵な人ができて、あなたが旗をあげなくてもすむようになったらいいのにね」と口にしていました。

戻らない父親を思うメルの表情は複雑な感情がこもっているように見えます。

ある日、メルの高校の学園新聞に「少女よ旗をあげる、なぜ?」という記事が載っていました。

記事を書いた風間俊(かざましゅん)とメルは記事をきっかけに出会います。

2人の高校では、文化部が集まる洋館カルチェラタンを取り壊すか存続するかという論争が起きていました。

新聞部部長である俊はカルチェラタン存続派です。

俊はカルチェラタンの取り壊し反対のアピールをするため、カルチェラタンの屋根から飛び降ります。

メルは落ちてきた俊に手を差し伸べるのですが「物理的に落ちること」と「恋に落ちる」ことをかけているのではないかと言われています。

メルと俊や文化部の仲間は協力し、取り壊し反対運動を起こしました。

共に過ごす時間の中で2人は惹かれていきます。

メルと俊の思いが通じ合ったあとのラストシーン、メルは冒頭と同じように旗をあげていました。

しかし、ラストシーンのメルは微笑みながら上を向いています。

海から届いた汽笛にも反応し、明るい表情で前を向きました。

ラストシーンの表情は、冒頭の複雑そうな面持ちと一変し、前向きになったメルの心境を表しています。

父親を偲ぶ日常を大切にしつつ、俊と共に歩む日々に希望を抱くメル。

劇中歌である坂本九の「上を向いて歩こう」に重なる、明るい未来を思わせるラストです。

カルチェラタンは存在しているの?

メルと俊が通う高校の文化部部室が集まった建物がカルチェラタンです。

カルチェラタンは物語の軸。

物語は建物の取り壊しを決めた学校側と、存続を切望する学生側の学園紛争を描いています。

カルチェラタンは非常にリアルな造りなので「モデルになった建物があるのでは?」と思いますよね。

結論から言うと、カルチェラタンは架空の建物です。

しかも原作の漫画ではカルチェラタンは存在せず、映画のオリジナル要素なのです。

そもそも原作の漫画『コクリコ坂から』(作:佐山哲郎 画:高橋千鶴)の舞台は1980年代。

学園紛争は終わりを告げていたため、紛争の中心となったカルチェラタンを描く必要がありません。

映画でカルチェラタンが登場した理由は、メルが営む下宿「コクリコ荘」との対比だと言われています。

下宿コクリコ荘に住む人は全員女性です。

研修医・絵描きの大学生・ビジネスウーマンなど、自立を目指す女性ばかりでした。

いっぽうカルチェラタンの住人は文化部の男子生徒。

文化活動に熱中しているものの、どこか抜けている変人ばかりです。

コクリコ荘は女の巣・カルチェラタンは男の巣として対比することで、当時を生きる男女の価値観や目指すところがハッキリと見えます。

カルチェラタンを掃除するため女子生徒が兵士さながらに踏み込むシーンは印象的ですが、こうした場面も女性の社会進出を表現しているのかもしれません。

カルチェラタンの存在は高度経済成長期の男女をいきいきと描く一因となりました。

カルチェラタンは架空の建物ですが、語源となる地域があります。

フランス、パリにある学生街Quartier Latin(カルチェ・ラタン)です。

パリ大学をはじめ名門校が集まるQuartier Latin(カルチェ・ラタン)は1960年代のフランス五月革命で学生運動の中心地でした。

『コクリコ坂から』のストーリーとつながる場所がカルチェラタンの語源になったのですね。

「貴様ら、〇〇」あの名シーン制作秘話

『コクリコ坂から』には名シーンがいくつもありますが、メルたちの親が記念写真を撮るシーンは特に印象的です。

学生服姿の澤村(メルの父親)・立花(俊の父親)・小野寺(両父親の親友)が「貴様ら、俺より先に死ぬなよ」と互いに言葉をかけあい、写真を撮ります。

生と死が隣り合わせだった激動の時代ならではのセリフです。

記念写真のシーンは宮崎駿が脚本を書いた時点では存在せず、制作過程で追加されました。

宮崎駿は映画試写の際、このシーンで涙したそうです。

記念写真に写る澤村・立花・小野寺は凛々しく前を向いています。

現代の記念写真はにっこり笑うのが定番ですから、随分と違いますよね。

厳しい表情の理由は、当時の時代背景が関わっています。

戦争の混乱期にあった時代、記念写真で笑う人はいなかったそうです。

記念写真のシーンは、鈴木敏夫プロデューサーの昔の家族写真を参考にしました。

作中と同じ時代に撮影した鈴木プロデューサーの家族写真にも笑顔がないそうです。

澤村・立花・小野寺は記念写真を撮ることによって友情を再確認しました。

立花の忘れ形見である俊を澤村が引き取り、自分の戸籍に入れたエピソードからも、熱い友情がうかがえます。

時代に翻弄されながらも、変わることのない友情を貫いた親たち。

彼らの思いを色濃く反映したのが記念写真のシーンです。

メルと俊の真実|意志をつらぬいた親たちと時代背景

メルと俊は恋に落ちますが「異母兄弟では?」と疑惑が芽生えます。

衝撃的な事実にメルはショックを受けますが、熟慮の末「私、風間さんが好き。血がつながっていても、たとえ兄弟でも、ずっと好き」と答えを出します。

結論から言うと、2人は血のつながった兄弟ではありません。

疑惑が生まれた背景には、戦争の混乱の中、子供を守ろうとした親たちの愛情がありました。

俊は養父母に育てられましたが、本当の父親は「澤村雄一郎」だと聞かされていました。

俊はメルの住んでいるコクリコ荘に招かれた際、澤村雄一郎が写っている写真を目にします。

澤村はメルの亡くなった父親だったのです。

俊は役所で戸籍を調べており、実父が澤村だと確認しています。

俊は、自分とメルが異母兄弟だと確信しました。

しかし実のところ、俊の父親は澤村雄一郎ではなく、澤村と同じ船乗り仲間で親友の「立花洋」でした。

俊は、亡くなった立花夫妻の忘れ形見の赤ん坊だったのです。

メルの父親である澤村は、俊が孤児院に送られないようにするため、自分の戸籍に入れました。

しかし当時、澤村の妻のお腹にはメルがいて、自分で育てる余裕がありません。

澤村は悩んだ末、船乗り仲間だった風間家へ俊を託すことにしました。

風間家では幼い子どもを亡くしたばかりだったので、俊を育てることに躊躇いがありませんでした。

俊の父親は戸籍上、メルの父親のままですから、俊が「メルと異母兄弟だ」と勘違いしたのもしかたないことです。

疑惑が晴れたのは、メルの父親と俊の父親の親友である小野寺に会えたからでした。

メルと俊は自分たちの足で小野寺に会いに行きます。

作品の脚本をつとめた宮崎駿が描きたかったのは「子どもたちが真実を知るために、自分たちの意志で奔走する」ことでした。

メルと俊がたどり着いた真実にも、たどり着くまでの過程にも、親たちの愛情が散りばめられています。

愛情をバトンのように受け継がれてきたからこそ今ここに自分たちがいるのだと、メルと俊は気づきました。

コクリコ坂からには「思いは受け継がれる」というメッセージが込められています。

『コクリコ坂から』に合唱シーンが多い理由

『コクリコ坂から』はまるでミュージカルのように合唱シーンが多いのが特徴です。

これは当時の時代背景にあります。

舞台になった1960年代は歌声喫茶が流行っていました。

歌声喫茶はリーダーが音頭をとり、客全員で合唱する喫茶店です。

コクリコ坂からの作中でも、生徒会長である水沼史郎のリードで学生集会に参加していた生徒全員が合唱をはじめるシーンがありZました。

歌声喫茶の流行は日本共産党が主導した「うたごえ運動」に端を発します。

うたごえ運動は共産主義や社会民主主義の思想を基盤として、労働運動や学生運動と結びつきながら全国へ広がりました。

『コクリコ坂から』で描かれる合唱シーンはこうした時代背景を色濃く映しています。

登場人物のモデルになった有名人

主人公メルのモデルになった人物は国民的女優の吉永小百合だと言われています。

吉永がモデルだと言われるのは理由があります。

作品の舞台となる時代の雰囲気をつかむため、吉永が出演していた映画を参考にしたためです。

宮崎吾朗監督は1967年生まれ、映画版『コクリコ坂から』の舞台は1963年。

宮崎監督は生まれる前の時代の雰囲気がつかみにくく、作品づくりの壁にぶちあたったそうです。

そこで鈴木敏夫プロデューサーは1960年代に吉永小百合が出演した『キューポラのある街』などの作品を宮崎監督に紹介しました。

1960年代、吉永ファンは「サユリスト」と呼ばれ、若者の間で一大ブームを巻き起こしていました。

当時の吉永が演じるキャラクターの明るさや前向きさを反映し、メルが生まれたのです。

メルというあだ名はフランス語の「海」=「la mer(ラ・メール)」に由来します。

作中ではコクリコ荘の住人である北斗美樹が呼び始めたとされていました。

実は、吉永小百合が主演し1963年に公開された映画に「光る海」という青春物語があるのです。

1963年という年と「海」という名称は無関係とは思えませんよね。

コクリコ坂からの登場キャラクターの中で、実在の人物をモデルにしたキャラはもうひとりいます。

徳丸理事長です。

徳丸理事長はメルたちが通う学園の理事長であり、カルチェラタンの存続を決めた人物です。

「エスケープか!青春だな!」と豪快に笑うシーンが印象的ですよね。

この徳丸理事長のモデルは、スタジオジブリの初代社長・徳間康快です。

徳間社長は宮崎駿のプロデューサーであり、徳間書店の創設者であり、アサヒ芸能の編集長でもある、やり手の実業家でした。

周囲から「時流を読む天才だった」「突拍子もないことを考えた」「喧嘩がうまかった」と評される、大胆で人間的魅力にあふれた人です。

スタジオジブリは徳丸理事長をユーモアのある人物として描くために、作中に出てくる徳丸の車のナンバーを「1090(とくまる)」にしています。

作中で描かれた徳丸理事長のユーモアあふれる豪快な人物像は、スタジオジブリにとって身近な人をモデルにしたのですね。

まとめ

コクリコ坂からにまつわる都心伝説を紹介しました。

「あのシーンが実は〇〇だったなんて……」

「このカットが本当は〇〇だったのかもしれない」

想像しながら鑑賞するもの楽しみ方のひとつですよね。

映画を未鑑賞の方も、観たことがある方も、この機会にぜひ鑑賞してみてください。

コクリコ坂からの新たな魅力に出会えますよ。

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