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弘法大師『空海』火葬説は本当か?|やはり言い伝え通り即身仏??

弘法大師とは

弘法大師空海(774年~835年)と言えば、密教を日本に広めた僧であり、真言宗の開祖、また、書に優れ、嵯峨(さが)天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に当時の『三筆(さんぴつ)』の一人に挙げられています。

唐から帰国した後に、高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を建立(こんりゅう)し、また、日本各地を回って教えを広めると共に、困っている民衆を助けたことでも有名です。

また、同じ密教で天台宗の開祖である最澄(さいちょう)と並び称されていることは有名ですね。

唐で覚えた技術で、四国の満濃池(まんのういけ)に最新の技術であるアーチ型堤防を造って決壊を防いだ他、持っていた錫杖(しゃくじょう)で地面を突くと、そこから温泉や泉が湧いた等の逸話が沢山残っています。

満濃池の灌漑を行う人々と、それを指導し、祈りをささげる空海。

日照りで京が大干ばつに見舞われた時、天皇から要請された空海は、その法力で、大蛇に乗った金色の善女龍王を呼び寄せ、直ちに雨を降らせました。その水は今も枯れることなく、神泉苑として残っています。

その空海は、今でも即身仏(そくしんぶつ=生きたままの姿で亡くなること)の姿で、高野山の奥の院の「御廟(ごびょう=先祖や貴人の霊を祀るお堂のこと)」で生き仏として、民衆の幸せを祈っているとされています。

ところが、空海が亡くなった頃の記録では、空海は「荼毘(だび)に付された」(死者を火葬するという意味)と書かれています。

現代の私達は、高野山には空海が即身仏としておられると信じています。

一体どちらが本当なのでしょうか。

各時代の記録をたどりながら、謎を探っていきたいと思います。

空海入定

空海が入定(にゅうじょう=死後もそのままの姿で修業を続けること・即身仏)したのは、承和(じょうわ・しょうわ)2(835)年3月21日です。

この日より前から、空海は身体の中を清める為に五穀を断ち、最後に香湯で身を清めた後、浄衣(じょうえ)を来て室に入り、自らの予告通り、6日後に大日如来の定印(じょういん)を両手で結んだままの姿で亡くなったとされています。

その後の空海の様子

入定後49日間は弟子達が法会をしていましたが、空海の様子は生きている時と変わらず、50日目に長く伸びた髪やひげを剃り、まだ温かかった空海の身体を輿で奥の院の「御廟」に移したとされています。

これは、空海の弟子の誰かが残した記録です。

この御廟で、今でも空海は瞑想(めいそう)し、人々の幸福を祈っています。

奥の院の御廟には、維那(ゆいな)という役の僧達が、毎日午前6時と10時半に空海に食事を運び、一説には衣服を整えると言われています。約1200年間続く行事です。

食事の内容は、和食ばかりでなく、スパゲティやシチューが供えられることもあるそうです。

記録に残る空海の入定姿

空海の死後、空海の入定した姿を見た人が少数います。

また、空海入定時に居合わせた弟子の残した記録もあります。

それらを見て行きましょう。

承和2年

空海が入定した年の10月に、弟子の真済が「空海僧都伝」を書いています。

その内容によると、空海はお釈迦様の涅槃(ねはん)の姿で病死した、と書かれています。

現在考えられているように、座った姿ではない上、自ら食を断ったのではなく、病死したようです。

承和3年

空海の最期を見届けたと思われる直弟子で、空海の十大弟子の一人である実恵(じちえ・じつえ)が、唐での空海の師であった恵果和尚の墓前に、その死を報告する為に、遣唐使に託した書状があります。

その内容の一部は

「和尚(空海)が承和2年3月に薪尽き火滅す。行年62、あぁ哀しいかな」

とあります。

これは、恵果和尚が火葬されたことと同様、弟子の空海も火葬されたことを示すと考えられています。

実恵は空海に次いで、「日本第二の阿闍梨(あじゃり)」と呼ばれた程、真言宗を世に広めた高僧です。また、道興大師の諡号(しごう)も下賜{身分の高い人(ここでは時の天皇)から下されること}されています。(日本で現在まで朝廷から『大師』号を下賜された僧は27人しかいません。しかし、現在お大師様というと、弘法大師のことを言うようになりました。)

その実恵が、言うことならば信憑性は高いと言えるでしょう。

斉衡(さいこう)2年~貞観(じょうがん)11年

斉衡2(855)年から貞観11(869)年にかけて編集された「続日本後記」には、空海が亡くなったことを、時の淳和(じゅんな)上皇が悲しまれた記録が残されています。

口語訳すると、

「あぁ、哀しいかな。(略)高野山が遠いので、空海が亡くなったことが京には遅く伝わった。(略)弔問の使者は急いで駆け付けたが、師の荼毘(火葬)の手助けも出来なかった」

となり、空海は火葬されたことになっています。

上皇から遣わされた内舎人(うどねり=天皇の身辺警護に当たる人)が、上皇に対し、

「大師の火葬は既に終わっていました」

と報告しているのですから、空海がその当時の仏教徒の習いとして、火葬されたとしても不思議はありません。

また、空海の十大弟子の一人で、桓武天皇の孫に当たる真如(高岳親王)が、空海の『埋葬』に立ち会ったという記録もあります。

延喜21年

空海入定から86年後、観賢(かんげん)という空海の曾孫弟子の要請により、延喜21(921)年に、時の醍醐天皇から空海に、「弘法大師」の諡号(しごう=おくりな)が下賜されました。

この時、観賢が御廟を開け、空海の伸びた髪やひげを剃ったと言います。また、衣も新しい物に替え、数珠の糸が切れていたので、新しい糸で数珠を繋ぎ、空海の手に掛けたと言います。

その後、大師号と御衣(ぎょい)の下賜を行いました。

康保5年

僧仁海が、康保5(968)年に、「金剛峯寺建立修業縁起」の中に、

「空海は、死後49日を経ても容色に変化なく、髪やひげも伸びていた」

と記しました。

どこからの引用かは定かではありませんが、実は、空海入定説はこの、空海死後133年経ったこの話から始まります。

それまでは、空海が御廟で今も即身仏のようにしていることは、一般には知られていなかったのです。それが、この仁海の記録から、そうであることが世間に広まりました。

治安3年

治安3(1023)年に、藤原道長が高野山に詣で、奥の院で法要を行った後、空海の入定の姿を見た、と「栄花物語」に記述があります。

口語訳で見てみましょう。

「ご入定の様を覗き見申し上げると、髪は青々として、お召しになっている衣は、少しも黄ばんだりくすむことなく新しく綺麗に見えた。(略)ただ、お眠りになっているだけのように見えた」

とあります。

道長は時の権力者であるだけでなく、奥の院の燈籠堂を改築し、現在の立派な姿にした程ですから、空海の姿を見るというわがままを通せるだけのことを高野山にしていたのでしょう。

元歴元年

元歴元(1184)年に書かれた「弘法大師御伝」の中には、延喜21年の観賢が空海に「弘法大師」の諡号を伝えに行った時の話に、以下の話が付け加えられています。

「観賢の弟子の淳祐(じゅんにゅう)には、空海の姿がどうしても見えなかったので、観賢は淳祐の手を取り、空海の膝に当てました。すると、淳祐はそこに温かみを感じ、手には芳香が残りました。その後、淳祐が触れる経典にもその香りが残ったと言われています。」

空海の姿が見えた僧と見えなかった僧がいたということは、今で言う、「霊感のある人にしか見えない」というようなことだったのでしょうか。

空海は火葬されたのか、それとも即身仏なのか

時系列で見てみるとわかるように、空海の死後直後には、火葬されたとされており、それに弟子達も立ち会っています。

それが、空海の死後133年経った頃から、即身仏で今も奥の院の御廟にいるという説が次々と言われるようになり、そちらが一般的となり、今でもそう信じられています。

一体どちらが本当なのでしょうか。

記録と第二代座主等の墓所

こうして空海が亡くなった当時の記録を見ると、どうやら空海火葬説の方が有力のようです。

実際学者の間では、火葬説が取られています。

更に、空海の後、金剛峯寺の座主(大きな寺を統括する一番偉い僧職)を務めた第二代座主の墓所はわかっています。第二代座主である真然(しんねん)を火葬し、遺骨を上等な焼き物の壺に入れて埋葬し、そしてその場所は真然堂として、金剛峯寺の境内にあります。

昭和63(1988)年、真然堂の修理工事が行われた際、同時に行われた発掘調査で、真然の骨壺が発見されました。

しかも、この骨壺は埋蔵された後、動かされた形跡が見られなかったということです。

また、空海の甥に当たる弟子、智泉(ちせん)は、空海より先に亡くなり、空海をとても悲しませましたが、彼の墓所もまた、金剛峯寺の境内にあります。

ところが、空海の御廟は金剛峯寺を離れた、奥の院にあります。金剛峯寺と御廟は、約4㎞も離れているのです。

空海の弟子達が境内に埋葬されているのに、何故空海は当時まだ森林であった奥の院に葬られたのでしょうか。

それとも、即身仏として、現在空海がいるとされる御廟は、森林が開かれた後に作られたものなのでしょうか。

維那が運ぶ食事

今でも維那が日に二度御廟に運んでいる、空海の為の食事。

これは空海入定後から1200年間続いていると言います。

また、空海の命日には、毎年新しい法衣が届けられるそうです。

しかし、空海が火葬され、どこかに埋められているなら、その必要なないはずです。

ここがちょっと引っ掛かるのですが、維那達は食事にしろ、法衣にしろ、御廟の前に置くだけのようなのです。法衣を整える、という話もありますが、そもそもいつの頃からか、維那達は御廟の中には入っていない=空海の姿を見ていない、ということだと思います。

ただ、私達でも、家族が亡くなったら、毎朝ご飯を仏壇にお供えしてお経を上げますから、もし、御廟の中に空海がおらず、実はそこに火葬された空海が埋葬されていたとしても、おかしい行事ではないのかもしれません。

ただ、はっきり火葬され、墓所がわかっている真然と智泉の「お墓」に対して、食事を運ぶことはないでしょう。

あくまで、御廟に、今でも髪や髭が伸び、身体に温かみがある空海がいるので、食事を運んでいると思われます。

ここから考えられることは、もし火葬されたとしても、御廟が空海の墓所と考えられないか、ということです。

リーディングの結果

ここで、ちょっと視線を変え、リーディングで空海の死を読み取ったものを見てみようと思います。

「ちかみつ」という人が、作家でオカルト研究家の山口敏太郎さんのインタビューに答え、空海をリーディングしたり、空海と直接話して得た話です。

その話では、空海はなんと弟子の一人に殺されたというではありませんか。

元最澄の弟子で、空海の十代弟子の一人となった泰範(たいはん)がその犯人だそうです。

泰範は、最澄の天台宗を空海の真言宗より栄えさせる為に、最澄に本当のことを言わずに、空海殺害を目的として弟子になったそうです。

空海は、泰範の企みを初めからわかっていたのに、弟子としたようです。

殺害方法は首を絞めたということです。そして、奥の院に運び、弟子達には

「空海は命が残り少ないことを悟り、五穀を断ち、これから即身仏となるおつもりだ」

と告げました。

つまり、その時既に空海は絶命していたのです。

「即身仏になり世界の平和を祈り、大衆を守る」ということは、空海が言ったことではなく、泰範の作り事だそうです。

それからは、即身成仏を目指す修業をしている(とされた)空海に水だけを運んでいた1人の維那が、ある日、どうも空海の様子がおかしいと、咄嗟に空海の手を掴み、冷たくなっているのに驚愕します。

しかし、丁度その時、泰範がそこへ来、その維那にここであったことは他の維那も他言無用、と言い渡します。そうしなければ、空海の即身成仏の願いがかなえられなくなる、とまで言ったそうです。

御廟の中のことについて、維那は一切他言しない決まりは現在でも守られています。

ちかみつ氏のリーディングでは、空海は泰範に依って首を絞めて殺され、今の御廟に運ばれた、ということです。

と、言うことは、御廟の中には本物の空海の即身仏がいるということになります。

場所だけを考えるなら、金剛峯寺から遠く離れた奥の院の御廟の位置は、簡単に人が入ることが出来ないので、都合が良かったのでしょうか。

また、死後百年近く経った空海の身体が温かかった話がありますが、ここでは既に冷たくなっています。

あくまでリーディングですから、参考にするかしないかは、あなた次第です。

考察

空海が亡くなった当時の記録では、空海は荼毘にふされています。

そして、即身成仏の姿で今も御廟にいるという説は、空海の死後133年経ってから言われ始めました。

その頃には、直弟子は誰も生きていなかったでしょう。

伝説や逸話を集めたものが広まっていったようです。

それでは、観賢や道長が見た、まるで生きているかのような空海の姿は誰だったのでしょうか。平安初期~中期に、人間の遺体を生きているかのように保存する技術はありませんでした。ですから、別人を空海に仕立てることも無理です。

ましてや死後百年近く経っているのに身体が温かい、芳香を放っていたなど、現代よりは、不思議なことが多かった時代とは言え、これらの話は、御廟の中の人物が真実高徳な人物、即ち空海自身であったことを表しているのでしょう。

また、1つの考え方として、生前からあまりに空海が偉大であったと同時に、49日を過ぎても髪やひげが伸びるという「即身成仏化」した空海を見た弟子達が、火葬を止め、密かに御廟に祀ったとも考えられないでしょうか。

淳和上皇の遣いにも、既に荼毘にふした、と報告すれば良いだけです。

恵果和尚にも、当時の仏教徒は火葬が常識でしたから、空海も火葬したと墓所

に伝える形を取ったのかもしれません。

まとめ

空海は亡くなった後、火葬されたのでしょうか、それとも即身成仏の姿で今日まで私達を守ってくれているのでしょうか。

様々な記録が残っていますが、御廟の中を調査しない限り、結論を出すのはなかなか難しいですね。

しかし、いずれにせよ、空海が残した業績とお大師様信仰は、大勢の人々の中でずっと続いているのです。